【レポート】食のフォーラム2015

2015年9月12日(土)13時〜19時
コーディネート・文/ 深江園子(オフィスYT)

見えないきっかけが詰まった集い

今年で4回目を迎えたこのフォーラムは、西村聖子さんが食を通じて出会った魅力的なゲストに学び、ふれあう夏の恒例行事です。テーマを定めず自由に語って頂く会ですが、今年の4人のゲストには、ある共通の想いを感じます。それは地域に根付き、自ら豊かさを創り出している点です。
西村さんは始めに黒松内町の皆さんの参加が増えていることに感謝を述べ、続いて「テーマは食に限らず、食を通じた出会いと、そこで生まれる話題を広く取り上げていきたい」と語りました。町内外の人々が年に一度集まり、寛いで語り合うこの会は、まるで大きな食卓のよう。ゲストとのご縁や参加者同士のご縁も、回を追うごとに広がっています。

講演①「暮らす街から」村岡武司さん(函館市・ギャラリー村岡)
◆まちの変遷を見て考える

十勝・音更町で生まれ、進学先の東京からの帰省で函館と出会った村岡さん。高度成長期の函館を訪れた村岡さんは、まちが時流に逆らうかのように歴史を誇り、徹底して残す気迫のようなものを感じました。現在まで函館山の麓の西部地区に住まい、ギャラリーを営んでおられますが、そこから見る函館は、独特の地形と歴史的町並みという顔のほかに、風力、石炭、石油と、エネルギーの変遷と共に塗り替えられてきた日本の縮図という一面も持っていました(そして原子力の時代になった今、函館市は大間原発に反対し裁判を起こしています)。エネルギー資源が変わることで輸送交通手段も変わり、まちの「重心」も移動する。それで言えば、昔の函館港は風力のまち、函館駅は石炭のまち、空港やバイパスのロードサイドは石油のまちというように読み取れます。人口の増減がない時代にもまちは移動し続け、その結果、西部地区の住人は激減した。函館はこうした「変遷の跡」が色濃く残るまちだと、村岡さんは感じています。
ところで、西部地区に残った町並みは、その後どうなったのでしょう。町並み保全や再生のために行動した市民の系譜を、村岡さんは3つに分けて説明してくれました。
《建築物の再生による西部開拓史》
第1次:個性的で小さな建物を再生させた、個人の努力
(相生教会、ペンション古稀庵、旧安田銀行、カリフォルニアベイビーなど)
第2次:30年前〜 比較的大規模な建物が再活用される動き
(旧函館郵便局、金森倉庫、日本郵船倉庫など)
村岡さん自身が携わったのはこの時代です。今でも「のめりこんだ、あの頃は何をしても楽しかった」と言うほど力を注ぎ、鳩が巣食い荒れ果てていた旧函館郵便局を、商業施設として再生利用することに成功しました。電報ひとつで大商いが動く時代にあって、郵便局は情報の中枢。その建物の立派さに、明治時代の函館経済の勢いを感じます。にぎわいの記憶がこもった空間がよみがえると、村岡さんはそこに演奏家や舞踏家を招き入れるなど、様々な仕掛けをしてたくさんのにぎわいを作り出しました。
第3次:10年前〜 再び個人の店が増える動き
(トンボロ、パザールバザール、ムラーノ・デ・アックアなど)
深谷氏が実家を改築して開いた2つ目の店、ラ・コンチャをはじめ、自分の生き方を表現する仕事で、身の丈に合ったやり方で建築を利用する人が増えています。

◆まちづくり 民の系譜

「お上のすることは」と村岡さんがユーモアで表現するのは、函館のまちづくりがいつも官のしくみに牽引されてきたわけではなく、むしろ民の力で自然発生的に歩んできた点です。民の系譜の草分けである「函館の歴史的風土を守る会」(http://www.hakodate-rekifukai.com)ができたきっかけは、一人の女性の新聞への投書でしたし、今も「市民自身が町並みを守る」という活動が続いています。その後村岡さんと仲間たちの「元町倶楽部」の活動「函館の色彩文化を考える会」や、函館・FMいるかで14年間続いた名物ラジオ番組「元町倶楽部のじろじろ大学」が生まれました。その後、まち歩き飲み歩きのアイデアとして全国に広まったバル街やソシエダ(続く深谷氏のお話にて)、他にも函館野外劇の会など、小さな市民活動が「たくさん、それぞれに行われている」と村岡さん。確かにこのほうが、全員をひとつのやり方にまとめるよりも、個人の自由な精神が生きているように思えます。

村岡さんの好奇心と探究心とユーモアがよく表れているのが、「ペンキこすり」の活動です。まるでカラフルな年輪のように見える画像は、サンドペーパーで建物をこすることで、上塗りを繰り返したペンキが層になって表れたもの。函館公会堂の補修時に建造時の色が復元されたのをきっかけに、80棟以上を楽しくこすり続け海外にまで遠征しました。これが建築の色彩変遷についての論文「時層色環」となり、トヨタ財団の研究コンクールでグランプリを受け、その助成金はまちづくりの公益信託になりました。役員も決めず名簿もなく、これだけの波及を起こした元町倶楽部について、「アメーバのような団体」と例えた村岡さん。「何もないときはじっと死んだふりをし、事があればざわざわと集まってきて自ら活動を始めるんです」。個人のゆるやかな集まりが自発的にこれだけの出来事を起こした点に、函館の市民力のようなものを感じます。
函館には、まだまだ取り残された建築があります。けれどなぜかその多くが、外から見えないよう別の壁で覆われている。なんともったいない…。そこには、経済成長期の価値観に乗り遅れたものを隠す心理があったのではないか、村岡さんはそう感じています。

「時代が新しく、大きく、早く、高く…と目指す方向は、もう行き詰まっている。立ち止まって、その価値観を見直してみるのもよいのでは?」(皆さんはいかがでしょうか。)まちに住む人が生き生きと自由で、まちを愛するならば、次の価値観への問いが湧いてくるでしょう。「誇りとするものは何か、何を徹底して残すのか、変えるとすればどうするのか?」

村岡さんが最後に紹介してくれたのは、じろじろ大学の「建学のこころ」。

「美しく変えるエネルギーと、美しいものを変えない精神を 養いましょう」

村岡さんご自身の価値観は、ここにも表れていたようです。//

講演②「料理人への道 そして世界へ」深谷宏治さん(レストラン バスク)

◆ 故郷から「美食世界一のまち」へ

函館の米穀商の家に生まれ、東京へ進学し、その後スペイン・バスク地方で料理修業をした深谷さんは、1981年にレストランを開業。以後、お店の中に収まりきらない様々な活動をしてきました。けれどそれらは、師に学んだひとつの事を実践した結果だったようです。

深谷家のルーツは石川県。祖父は丁稚修業から米穀店を興し、父は会社勤め。そのお父さんは味噌汁を飲まず、ボーナスが出ると家族を連れて中華や洋食、フランス料理を食べに出かけ、お母さんが寝込めば、ご近所のフランス料理店「五島軒」からスープやハヤシライスが届く、そんな家庭でした。幼稚園は五島軒の次男さんと同級で、毎朝店の大きな厨房を通り抜けて迎えに行ったと言います。

1970年には東京理科大理工学部を卒業しましたが、当時はベトナム戦争が終わりかけ、環境問題という言葉が生まれた頃。深谷さんは市民運動に参加し、そしてソニー製ビデオカメラの部品がベトナムで爆弾に転用された事件などを知り、「自然科学だけで、社会科学を学ばずにものを作ってよいのか」と疑問を抱きます。激しい学生運動をやっていた同期達もみな就職したのに、自分は就活をしない。勧められるまま大学の助手をし、本を読みまくっても結論は出ない。どもり癖を揶揄されて奮起し、セールスマンに挑戦したらなぜか売上成績トップになったけれど、それが目的ではないのですぐ辞めた。その後深谷さんは、「食べる事が好きだし、美味しいものを作れば少なくとも戦争にはつながらないし、人を幸せにできるんじゃないか」と思い立ちます。そこで都内のレストランで二年半、働きながらフランス語を学び、念願のヨーロッパへ旅立ちました。

片道切符と観光ビザ、キスリングのザックひとつで横浜を出港し、シベリア鉄道を経てパリに着いたのは10日目。労働ビザがないので、レストランの扉を叩いたが15〜6軒断られ続けます。そこで友人を作るきっかけづくりにヒッチハイクをし、バスク地方の宿屋でフランス語のできる女主人に、小イカの料理が名物だと聞きます。僕の故郷にもイカの内臓を使う料理がある、というと作って欲しいとせがまれ、翌日市場でイカを三ハイ買ってきて、実際に塩辛を作ろうとした。約束を守ったことに感激した女主人が、「うちで働くのも構わないが、スペインで三本の指に入る店へ行きなさい」と保証人になってくれたのです。これが生涯の師、サンセバスチャンの料理人・ルイス・イリサールさんとの縁でした。

◆ 師から受け継ぐ、二つの教え

サンセバスチャンのイリサールさんの店「グルチェ・ベリ」で、多くを学んだ深谷さん。「ルイスの料理は、食材をそのまま厨房に入れるような“本物の料理”だった」と言います。近所の農家が持ってきた袋が動いているので開くと、ウサギや鶏が出てくる。屠るところからやるから、血も内臓も料理に使う。「生き物のエネルギーの上位にいる者が下の者を食べる作業。だから最後の最後まで使い尽くす。そして、料理をゼロから全て作る店でした」。スペインでもそうした仕事は減っており、現地で昔の料理を実演したところ、若手は誰も下ごしらえができなかったと言います。師は当時から、ワイン、酢、チーズ、ハム、アンチョビをつくり、畑をして厨房の堆肥を入れるといった循環も実践していました。1984年に函館で店を持った時以来、深谷さんが日本でつくる人のいなかった生ハムやアンチョビを自家製にし、パンを焼き、野菜をつくるのも、師がお手本なのだとわかります。

もうひとつイリサールさんから学んだこと、それは「料理人は、まちのために何ができるか」という考え方です。昼休みに他店に連れて行かれ、「今日は鯵を勉強するから」と言われる。講師役の料理人が仲間に解説し、どこにどんな鯵がいるか、どんな料理があるか、隠さず教えあう。イリサールさんはこう言いました。「俺たちはバスク人で、マドリッドと対抗している。政治家がやっているのと同じこと(競争)を、料理人は鍋でやるんだ。おいしい料理を出してマドリードの人間を食べに来させる、そのためにバスクの料理レベルを上げなければいけない」。その後、サンセバスチャンではモダンスパニッシュ(料理)に脚光が当たり、人口あたりのミシュランの星が最も多い市になり、お客も料理人も押し寄せる「食の都」になりました。二年半の修業ののち帰国した深谷さんは、毎年バカンスを使ってサンセバスチャンやスペインの他都市に通い続けています。つまり30年間で「今に世界中の人がここに集まるよ」という師の言葉が実現する過程を、目の当たりにしたのです。

◆ 料理人が街のためにできることとは

函館での深谷さんの活動は、次々に形になっていきます。1998年、クラブ・ガストロノミーバリアドス(食に携わる同業異種の勉強会)を始め、2000年に著書「スペイン料理[料理 料理場 料理人]」が完成(村岡さんの発案で出版記念会が開かれたそう)。2004年「スペイン料理フォーラム」の開催は本物のスペイン料理を日本で知らしめるためでしたが、料理記者の岸朝子さんに相談した際に「こういうことは行政か企画会社がやるものよ」と言われたそう。同年、スペインの食習慣に欠かせないバルの文化を知ってもらおうと、25軒の店、450綴りのチケットで第一回「バル街」も行いました(毎年4月と9月で20回を越え、チケットは5000枚が完売)。2009年に始まった「世界料理学会 in HAKODATE」も、「初めは人に笑われた」と深谷さんは言います。しかし現実には2015年春に4回目となり、600人の会場を使うまでになっています。料理学会と同時に、日本初の美食カレンダーの製作も始めました。これは「今ここで、これが食べられる」と、料理と食材をPRするもので、利益は料理学会の資金にもなります。

こうした一見大きな動きも、仲間を誘って実行委員会形式でやればできるはずだ。そして継続性を考えて行政のお金は使わず、資金を回転させながら続けていこう。深谷さんには、そうした確信のようなものがあったようです。食材では昔の米品種「松前」を復活するために種を求め、農家に依頼し、店のパエジャやカルドッソに使っていますが、これは「復活したお米を使うことで、今まで注目されなかった地元の食べ物に目をつける人が現れるから」と言います。また、村岡さんの話に出てきた、壁で覆い隠された歴史的建造物のひとつ、旧・松橋商店を、理解ある友人が買い取って修復し、その維持のために仲間を募って男性会員のみの美食倶楽部を作っています。これはゆくゆく、港の目の前というロケーションと、蔵造りの特徴を生かしてマイクロワイナリーに使う人が現れるまでの、リレーの仕組みなのだそう。

こうした数々のアイデアがなぜ実現できるのでしょうか。深谷さんの真の意図は、料理の力で生まれ育った街を心地よく、楽しくすること。それは、料理人の役目とその果たし方を示してくれた師・イリサールさんに約束した、「ちゃんとしたレストラン」の、ひとつのありかたなのかもしれません。//

 

第二部 パネルディスカッション

パネリスト:新川幸夫さん、村岡武司さん、深谷宏治さん、曽我貴彦さん

コーディネート:深江園子

パネルディスカッションのテーマは「食から町づくりへ」。

講演者のお二人に、新たにお二人を加えたパネルのテーマは、暮らすまちを心地よく、楽しく、豊かにする秘訣。食や環境といった切り口は、そこへ至る手段なのではないか。そんな気づきを4人のパネリストにぶつけてみました。

新川幸夫さんは、2007年から続くボランティア活動団体「黒松内ブナ林再生プロジェクト」の会長です。ご子息が同町へ赴任したのを縁に移り住み、趣味の登山などを通じて黒松内町が最北自生地と言われるブナ林の存在を知り、保存再生活動を始めました。町内外の協力と環境CRSなどのスポンサーも得て、ブナの森の素晴らしさを理解していくにつれ、その価値を生かす方法として、フットパスの整備にも取り組んでいます。その手法は、山や環境に負荷を与えない方法を探る調査に基づいています。

曽我貴彦さんは小布施ワイナリーの次男に生まれ、山梨県のココファームで農場長を務め、奥さんとともに北海道へ移住。2009年に余市町登(のぼり)地区で小規模の醸造所を備えた2ヘクタールのブドウ農園を開きました。地元栽培家の原料で醸造したワインが、日本ワインの中でもひときわ人気を博したヴィニュロンです。2014年には自社農園のピノ・ノワール種100%の「ナナツモリ 2012」を初リリース。栽培法は無化学肥料、無農薬で、畑から醸造まですべて一人で行っています。

 Q1. みなさんが行動を起こしたきっかけは、どんなことだったのでしょう?

(コメント敬称略)

新川:同じ後志管内の小樽出身で高校教員として地方赴任が多く、山歩き、海遊びなどで各地の自然に親しんだ。場所が変わっても、自分の住むまちが良くなってほしいという思いがある。何か役に立てることはないかと考えた結果、黒松内町ではぶな林の再生に取り組んできた。

村岡:実は函館に親しみを持ったのは、親類がいて帰省の折にこづかいを貰えたことがきっかけ(笑)。実際に暮らすようになり、歴史的建造物に出会い、旧函館郵便局の再生活用を、と行動しはじめたとき、函館の知人たちに全力で止められた。地元の人もその価値に気づいていない、と知ったことが逆に動機になった。

深谷:東京やバスクで暮らすことで、生まれ育った町を外から見て、改めて素敵だなあと感じたのがきっかけ。小説の舞台として数多くの作品に登場する函館には誇りを持っていた。料理で言えば、東京の飲食店で食事をすると、函館で当たり前だったものが東京では知られていないのに驚いた。それほど外食の層の厚い豊かなまちだったのだと気付いた。料理をつくる環境としては恵まれていたと思う。師匠は日本には現地と同じようなスペイン料理店がない、それをつくれと言った。そこで、自分の故郷でレストランを開いた。

曽我:余市町に魅力を感じて移住した。その決め手は、北海道の冷涼な気候と、そして果樹栽培の歴史があること。自分のめざす栽培に適した環境(夏は十分暑くなり、冬は雪の中で樹が越冬できる)と、ベテラン果樹農家さんや同世代の仲間である栽培家の人たちの存在が大きかった。また、余市の果樹栽培がもつ景観などの価値に気付かれていない気がした。

Q2. 実際の行動を振り返って、最初に起きた(または起こした)変化は?

新川:振り返ってみると、人と出会ったことが大きい。ブナ林センターのスタッフ、役場の担当者とのふれあいが、ボランティア活動を立ち上げる後押しになった。ボランティアでは必ずしも多くの人が行動できるわけではないが、ブナ林の価値を、例えばツーリズムなど他の角度からも発信したい。

村岡:活動の孵化装置のようになったのは、シャノアールという店の大きな丸テーブル席だった。そこに集まる常連客が語り合ううちに、共通の思い、自分たちの時代について思いが深まった。古い建物や水運に使われた掘割など、今使われていないから価値がない、壊そうという物差しに異を唱えてきたが、当時は連戦連敗だったと思っている。しかしその円卓から、歴史的な環境の中で自分たちの人生を表現しよう、という個人が幾人も現れたように思う。

深谷:たぶん、旧市街地区から、人が減ることへの歯止めにはなっているかもしれない。人の流れ、まちの重心移動が、少しだけ変わってきたように感じる。街並みという視点で見て、ここで誰か何かやらないかなあ、と思う場所に、お店ができたりといったことだ。ヨーロッパでは小さなまちのデザインが、中心にギュッと集約されている。日本のまちは外へ外へと広がって薄くなってしまうので、もっとみんな集まって暮らさないかなあと願っている。バル街ではまちに人が集まる。住む人は増えてはいいかもしれないが、ただ、観光客はくる、それは間違いない。

曽我:田舎ゆえの良い点がある。自分もそうだったが、父親世代との葛藤、世代交代がこれから、という過渡期の時代にある。一方で、息子世代は他府県よりも外を見る機会が少ないように感じた。そこで、若いブドウ農家のグループをつくって語り合い、よいワインを飲む勉強会を始めた。また、自分たちが出荷したブドウでつくるワインを、産地にお客様を迎え入れて飲んでもらうことも始めた。こうしたことをお祭りとして、仲間と一緒にやることにした。それが毎年7月、300人規模の催しになっている。町主導ではなく、個人の集合体が自由に行動するのがいい気がする。ワイン特区でもあり、農家さんが蔵を小さく改装してワインが作れる地域になっている。

Q3.長年のうちにまちを少しずつ変えていく、そんな皆さんの「続ける原動力」は?

新川:一町民のボランティアなので、楽しいということが一番の原動力。自分のやりがい、楽しみが長続きの理由。また、視野を広くもつことも大切。フットパスの活動では交流人口の増加がひとつの効果で、つまり町内外の人のつながりが増え、自分の人生も豊かになったと感じている。

村岡:人の手触り感、生活の息吹のようなものが残っているまちに惹かれたが、孫をもつ年代になって、いま残すべき環境は何かを考えさせられるようになった。まちの持続可能性という面で、函館のまちが古いものを残すことも含め、いま自分たちが生きている環境の中で、自然や郊外と都市の関係も含めて興味がある。

深谷:僕自身が楽しいし面白い、これに尽きる。例えば、3.11震災の年、一度だけバル街開催を中止したことがある。印刷物が刷り上がった直後の寄り合いが震災の一週間ほど後だった。その時は、こういう時だからやるべきだという意見、静かに控えるべきだという意見、両方があったが、ある仲間が「友人が行方不明。いま楽しく参加はできない」と言った。それを聞いて、皆「楽しめないのなら、やめよう」と一致した。心から楽しめる状況をつくることが、継続することなのかもしれない。もうひとつ、官のお金を頂かないで継続することも、自由に楽しもうという気風につながっているかもしれない。料理学会も、自分たちの本当に楽しめることで、お金を回していければ、それがいいと思う。

曽我:都市と違って過疎化しつつある農村ならではの危機感がある。自分たち世代には人が都市に集中してしまうのを食い止める役目がある。果樹は一度植えたら100年もつものだが、その時は自分の孫が管理しているはず。息子に引き継ぐ時にいい状況で手渡したい、そのために良いものをつくり、お客さんが訪れるようになり、地域を活性化することを考えていこうと思う。

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「やりたいこと」が「義務感」に変わってしまいがちな毎日の中で、小さく行動を起こすこと。今回のパネリストの皆さんは、誰よりも「自ら楽しむこと」を見失わず、それを力にして、たゆまずしなやかに活動しています。それが周りの人にも広がり、暮らしを少しずつ変えていく。聞く側の私たちも、身近な行動を小さく変えていきたくなる、示唆に富んだお話でした。//