Ange de Fromage

黒松内のチーズ工房 ケーキ&カフェ・レストラン

2016年11月13日
から 西村 聖子
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第5回 北海道の食を語る講演会と食のフォーラム (その2)

 

斉藤幹男さん

1978年札幌生まれ。2007年ドイツ・シュテーデル美術大学卒、マイスター取得。 手描きの絵や写真、CGなど様々なイメージを組み合わせた映像作品を主に制作。国内外のギャラリーや美術館展示や、ライブイベントでの映像上映も盛んに行う。2016年、北海道立近代美術館「ともにいること ともにあること」に出展。

 

◆誰もが見られて、心をゆらす不思議なアート

「自己紹介がわりに」と、会場に作品を展示してくれた斎藤幹雄さん。ドイツ留学を経て札幌を拠点にする美術作家です。斉藤さん、実は大学は文学部で小説家志望だったそう。どうやって美術家に? どうしてこんな不思議な作品を作っているの?

頭の中は聞きたいことで一杯です。

影絵遊びのように壁に踊る作品を眺めながら、斉藤さんの話が始まりました。

 

「小学校の美術の先生が、大人に対するのと変わらない視点で指導し見守ってくれ、その頃に絵を描くのが好きになりました。中島公園の”童話の小径”に当時のタイル絵が残っていますが、技術は今もさほど変わっていませんね(笑)。その後美術部に入ることもなく、大学の文学部で小説を書く勉強をしました。教授は小説家で文芸評論家でもある方で、『文学部で学んでも小説家にはなれない』と言うのです。でも先生には小説の技術、つまり”自由な形”で書いていいのだということを教わって、それが美術に進むきっかけのひとつになりました。」

 

−斉藤さんはその後ドイツへ。日本と違う豊かさに惹かれたのだそうです。

「例えば、家族で夜の散歩をして、閉店後のギャラリーのショーウインドーを眺めたり、そうした時間の使い方にちょっと驚いて、なんだかとても豊かでいいなあと。志望当初は文芸評論や美術評論を書きたかったのですが、それには英語力が足りない。ならば美術を制作する側ならどうだろう?と。それから制作を始め(!)、ドイツの美大二十校ほどに自己流の手描きアニメーションをVHSビデオにして送るうち、一人の教授が「言葉が喋れなくてもいい、作品をもっと見たい」と言ってくれました。もうこんなチャンスはないと思い、ひと月後にはフランクフルトに行っていました。」

 

−ドイツの美大の環境は、日本で思っていたのとは随分違ったようです。

「その大学の授業はちょっと変わっていて、先生が教える「授業」ではなく、アトリエで自由に制作したり、違う表現の学生が教えあったりする。先生も月に3日間くらいしか大学にいない。そして学生の活躍が教授の実績になり、教授の作品が学生には刺激になる。学生が先生を選び、アーティストにとってもいいキャリアだからとても熱心です。学生のほうも、何ならいつでも取って代われる、というような独特の雰囲気でした。」

「ハウスマイスター(学生の生活面を補助する職員)の夫妻は本当にアートが好きで、教授や学生の作品をコレクションして展覧会を開く収集家でした。食堂のスタッフも食のアーティストみたいな人で、普段から同じ献立が出ない。料理のワークショップはこの人が教えるんです。市場で食材を選び、食べられる野草を教わり、ビールやソーセージをつくる。そうしたことも制作活動のために大切だと学びました。写真は授業で学生がつくったパンで壁を埋め、それをチェーンソーでガーッと切ると中でアーティストが制作しているという作品です。僕が人生で唯一作ったパンも入っています(笑)。」

 

−そしてデビューの契機が!いきなり学内展最優秀賞に選ばれたのです。

「画用紙にクレヨンや色鉛筆で絵を描き、フィルムを吊ってローラーで回転させて映写する作品をつくりました。学内展は、場所とりからすごい競争です。なぜそんなに熾烈かというと、ギャラリーのオーナーや評論家が来るし、賞金は数十万円。学生にとってはすごいことで、皆必死なんです。僕はそこで賞を頂いてしまって、その時しか見たことないんですが、500ユーロ札 −財布からはみ出ちゃう大きさで、たしか緑色でした−を3枚もらいました(笑)。すぐにスカウトが来て、ギャラリーに合わせて少し洗練した形にして展示をしました。」

「僕のアニメーションはストーリーがないんです。最初から順番どおり見なくていい、時間の制約がない。そして小さな方からお年寄りまで見てもらえるものがいい。そういう思いから映像に取り組み始めました。2015年に制作したのは《コアラの反抗期》というCGアニメです。コアラが、なぜかわからないけれども怒っている。声は、動物の鳴きまねが得意だというドイツの友人に、想像だけで録音してもらいました。地球の裏側にいる見たことのない動物をまねるのは、その距離を感じることです。この作品では、人に見てもらった時に作品がはじめて成立する、ということを思いました。」

 

−オブジェも、場所や見る人が関わる事で”変化”していくようです。

「2013年と2015年の個展は、はじめにご紹介下さった高畠みゆきさんにキュレーション(アーティストを助けて展覧会をつくりあげること)をして頂きました。今日、この会場の二階にいる猫はそこで展示したものなんですが、ビルの地下にあるギャラリーへ降りてきた人がびっくりするようなサイズにしたいと思い、尻尾を天井ギリギリまで高くつくりました。ピンと立った尻尾を輪投げの形にしたのは、日本にもドイツにもあって誰もが知っているからです。」

「入口脇にあるのは、『さっぽろ天神山アートスタジオ』に依頼された《犬の小便小僧》です。市民が参加できるような作品を、ということでした。現地に行ってみると、雪の上のあちこちに犬のおしっこの跡が(笑)。ちょうどベルギーで小便小僧の人形をたくさん買ったばかりで、「おしっこの跡に合わせて犬の人形を置いたら、カワイくなるんじゃないか」と。そこで、雪を型に入れて犬の像を大量生産することにしました。ワークショップでは一体作っては次のおしっこの跡を探す(笑)。吹雪の日は屋内で、小さなシリコン型でホワイトチョコの犬を作りました。1週間後に雪像を見に行ったら犬の前に花やドングリが供えてあって、これはお地蔵さんだなぁと(笑)。発表後に思ってもみない受け止め方をされるのがいい。そう思いながら制作しています。」

 

会場とのQ&A)

—黒松内町でも2015年に、地元の小学生と一緒に映像制作をされましたね。

はい。こういうとき、地元の方々とふれあっていくと、2回目にできるものは1回目より良くなります。つまり、つくるのに時間がかかるものなのだと思います。東京ではなく札幌を主な活動場所にしてみて、風土や気風に合うもの、ここらしいものがあることとか、時間をかけてつくったり味わったりするリッチなもの、という感覚を強く持ちました。

 

—現代アートは難しいものではないのですね。どう見たらいいのでしょう?

アートへの感じ方は人によっても時期によっても変わると思います。誰もが、いつ好きになるかもしれないので、一度で決めずにたくさん見て頂きたいです。

 

斉藤さんのお話は明快で、それでいて質問を受けて豊かに広がっていきます。作品は見られることで変化していく、その土地になじむアートがあるというのは、まるで、チーズやパンやワインにもつながる気がしました。

ところで、バルコニーから私たちを見下ろしていた巨大な黒猫は、この建物に永住を決めたようです。ぜひ立ち寄ってみてください、思わずクスッと笑ってしまうかも…。

 

休憩の後はいよいよ、テロワールをつくる3人の方たち、村岡武司さん(函館・ギャラリー村岡)、木村幹雄さん(七飯・Hütte)、曽我貴彦さん(余市・ドメーヌタカヒコ)が講師を交えてのパネルディスカッションです。

 

(その3に続く)

2016年11月8日
から 西村 聖子
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第5回 北海道の食を語る講演会と食のフォーラム (その1)

今年で5回目となる「食を語る講演とフォーラム」(主催:株式会社 アンジュ・ド・フロマージュ、後援:黒松内町)。例年は秋口に行われるのですが、今回は夏~初秋の農繁期を外そうと6月の開催にトライしました(実は6月のこの時期も、農家さんは牧草の一番草を刈るのに忙しいそうで、なかなか難しいですね)。
西村聖子さんのご挨拶は毎回感謝の言葉で始まりますが、加えて今年は節目の年だそう。会場にもなったチーズ工房併設の建物について指定管理契約を無事更新し、今後も5年と言わず末永く黒松内町のこの地で頑張って参ります、という嬉しい報告が添えられました。

佐藤雅彦 副町長のご挨拶も2013年の開業当時を思い出し、「(アンジュは)後志管内(”○○管内”というのは、広い北海道を分ける行政区分なのです)で最も多くの原料乳を使うチーズ工房です」と実績に触れておられました。

いつもの通り、プログラムの前半は二つのご講演。後半はパネルトークです。一人目の講師は医療法人萬田記念病院院長・萬田直紀先生です。西村さんとはご近所でお子様同士をご縁に長いおつきあいだそう。人のご縁を町につないでいけたらと願う西村さんに招かれる講師陣は、食だけに限らずいつも多彩です。

 

萬田直紀さん

公益財団法人萬田記念財団理事長、社会福祉法人札肢会理事長。糖尿病治療の国内トップランナーであるだけでなく、札幌交響楽団理事など、医療以外の広い分野でも地域貢献を行うドクター。

 

「食べて動く」で健康寿命を伸ばそう

糖尿病治療の国内第一人者であり、札幌で今年60周年を迎えた札幌テレビ塔そばの同院の三代目院長。さらに社会福祉法人と公益財団法人のトップを務め、医療福祉だけでなく音楽やアートの分野でも地域貢献をなさる萬田先生。実は、創成川公園に設置された彫刻家・安田侃氏の大型作品も萬田先生の寄贈だそうです。その語りは軽妙でユーモアにあふれ、会場に慢性病への最新の考え方や予防医学の大切さをしっかりと印象づけられました。

今日のテーマは「食べて長生き、健康寿命」。病院概要のご紹介と11月14日の「世界糖尿病デー」のご紹介から、話題は食と慢性病の関係にうつります。データによれば男性は40歳代で肥満増加率がピークに達し、それが将来の病気につながること(逆に女性は20~30歳代の痩せすぎが課題だそう)。一方、肥満対策だけを捉えた食事療法(ダイエット)は、実際のデータ(国民栄養調査)と矛盾しているのだそうです。炭水化物を摂らない極端なダイエットが流行していますが、実際の摂取カロリーはむしろ減少傾向です。食品群別の摂取量はごはん、パン(炭水化物)と野菜が食べ過ぎどころか減っており、脂肪、肉、塩分が増えている。果物も、40~50歳代以下は極端に不足しています。所要量に対するアンバランスを助長するダイエットは、健康のためになりませんね。先生は実践として、「600kcal・塩分3以内」のコースメニューを監修され、札幌グランドホテル1階のカジュアルレストラン「BIG JUG」が月替りのランチで提供して月1000食の利用があるそうです。

 

さて日本人の糖尿病は1980年代、ちょうどバブル期に急増しました。(そもそも糖尿病はインスリンが作られない先天性のタイプと、インスリンが作られるのに効果的に働かないタイプに大別されますが、今回は後者=生活習慣病としての糖尿病に限ったお話です。)エネルギー摂取量、たんぱく質は減っている。脂質も一時増加したがその後減っている。つまり、糖尿病の原因は「食べ過ぎ」ではないのです!
では一体、何が背景にあるのか。グラフがぴったり重なったのは、自動車の台数の増加でした。つまり運動不足が要因と考えられないでしょうか。「男性の持病」と言われる通り、糖尿病は圧倒的に男性に多い病気です。50歳前後で男性の糖尿病率は倍増し、70歳代の5人に一人は糖尿病。「多くの糖尿病は老人病」と言われるそうです。(女性については60歳以上で増えています。)そうしたケースでの主な理由は「運動不足」だと考えられます。

近年、脳溢血や心筋梗塞などの検査法・治療法は飛躍的にに進歩し、これにより平均寿命も伸びてきました。しかし大切なのは、平均寿命だけでなく健康寿命(普段通りの生活ができる身体の状態)です。一般に、健康寿命は平均寿命マイナス10歳と言われます。その差は5つの原因で生まれます。①高血圧 ②糖尿病 ③コレステロール・中性脂肪の高い状態 ④喫煙 ⑤内臓脂肪(目安はウエストサイズが男性85cm、女性90cm以上)。この5つが健康寿命を短くする要因です。健康寿命は、死ぬまで元気で生きていくこと。自分でトイレに行ける身体であることとも言えます。寿命よりも健康寿命、これが何よりも大切です。

私のまとめは、血糖、体重、血圧、コレステロール、中性脂肪、これらを適正に維持することで、合併症になりません。合併症にならなければ、健康寿命が保たれるということになります。

健康を守るために避けるべきは、不規則な食事(食事を抜く、就寝前に食べるのはメタボの原因。食べるのは寝る2時間前まで)。ドカ食い、早食い(噛めば噛むほど血糖値は下がる。歯の健康は重要)。スポーツドリンクを飲みすぎない(30kcal/100mlまでは「カロリーゼロ」と表示できることを知っていますか?)、運動を一度に頑張りすぎない(1万歩にこだわらないで、食後に千歩ずつなど小分けにするのがコツ)、体重を測ること、血糖値を毎日測ること(測るから病気が見つかる?いいえ、測ることで値を気にかけ、改善するのです)。
「食べて運動して健康寿命を伸ばそう」を覚えておいてください。

 

会場とのQ&A)

*薬の副作用についてメディアで過激に取り上げているが、本当はどうなのでしょう?
―副作用のリスクは厚労省HPにも明記されているのに、雑誌を売るために新しい事実のように書くのだと捉えています。

*ベジタリアンの食生活については、栄養バランス上いかがでしょうか?
―「しっかりバランス良く食べて運動する」ことを考えていただきたいです。菜食主義の方もたんぱく質を補うために大豆などを重視しています。たんぱく質が不足し続けると問題なのは、筋肉が作られなくなることです。「サルコペニア」といって筋肉がやせ細り、歩行や運動ができなくなってしまい生命に関わります。バランスが大切です。

*仕事上、お菓子をつくるのですが、お砂糖をたくさん使います。どうつきあったらよいでしょう?
―私が糖尿病の栄養指導をする場合、「ケーキを食べてはいけない」とは言いいません。「分食」(分けて食べる)がポイントで、食後にすぐ続けて食べるのは避けましょう。昔から言う「10時のおやつ、3時のおやつ」です。例えば私は10時に牛乳、3時に果物をつまみます。そして食べすぎず量を決めて、食べたら横にならずに運動をしましょう。ケーキを売るときに運動も勧めてはいかがでしょう(笑)

(小休憩には札幌「バンドカフェ」の高坂美子さんから中国茶のご提供がありました。)

◆アートは難しくない、人の心の動きを起こすもの
お二人目の講師は、アーティストの斉藤幹雄さんです。

が、その前にもうおひとり、興味深いゲストが案内役になって下さいました!
インディペンデントキュレーターの高畠みゆきさんです。

キュレーターとは、多様な情報を選び出しまとめあげ、新しい視点を示す役割のこと。アートの世界では新人発掘などの意味合いもあります。高畠さんは、札幌・大通のギャラリー「CAI02」を拠点に、まだ発掘されていない現代美術アーティストの方達の展覧会を企画しています。音楽とアートが好きで、海外に旅するにも美術館のそばにホテルを選ぶほどだった高畠さんは、95年にウイーンに旅をし、グスタフ・クリムトの作品《ベートーヴェン・フリース》(ベートーヴェンの第九交響曲へのオマージュとして生まれた大壁画)を見るためにセセッション(分離派館)を訪れます。その会場では、当時多数の難民を生んでいだボスニア紛争についてのアートの制作過程が「展示」されていました。街のあちこちに難民の姿がある状況で、その作品誕生の過程を見たことで、「現代アートはわたしに直接かかわること、必要なことなのだ」と強く感じたそう。昔からある作品に対して美しいと感じることも素敵だけれど、現代アートは「それを今、目の前でつくりあげる人がいて、そこに立ち会うことができる」、その稀有な素晴らしさに気付かされたと言います。

「斉藤幹雄さんの作品には、温かなお人柄とともに、世界中の紛争や問題へのメッセージをこめている、メッセージ性の強さを感じました。
斉藤さんの作品に触れていくうちに気づいたのですが、この画調は子供の頃のまま。わかりやすいようでいて奥の深い独特の世界観。じっと見ていると自分がニュートラルな気持ちになれて、どこか夢の記憶に引っかかってくるような作風なのです。
現代美術の醍醐味のひとつは、作家と直に会えることです。どうぞ斉藤さんのお話を直にお聞きになってください。」

<その2に続く>

2016年5月3日
から 西村 聖子
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第5回 北海道の食を語る講演会と食のフォーラム 開催案内

■日時:2016年6月11日(土) 12:00開場
■参加費:5,000 円(税込) ※講演会、ディスカッションのみ参加は1,500円(税込)
■往復バス:札幌⇔黒松内(会場まで) 4,000円(税込)
バス乗場 札幌駅北口 鐘の広場
《時間》 行き/札幌 9:00発→(小樽、余市経由)→黒松内 12:00着
帰り/黒松内 19:30発→22:30 札幌着
■場所:アンジュ・ド・フロマージュ (北海道寿都郡黒松内町字赤井川 114 番地)
http://www.ange-seiko.com/■プログラム
12:00‐開場 / 総合司会・堺なおこ (アナウンサー)
12:30‐12:35 / 開会挨拶・西村聖子 (アンジュ・ド・フロマージュ 代表取締役)
12:35‐13:35 / 講演・萬田直紀 (医療法人萬田記念病院 院長)
13:35‐14:35 / 講演・斉藤幹男 (美術作家)
14:35‐15:00 / 休 憩
15:00‐17:30 / ディスカッションテーマ「幸せな食卓」〜からだの健康と心の健康〜
モデレーター・深江園子 / 札幌(フードライター)
パネリスト・萬田直紀 / 札幌(医療法人 萬田記念病院 院長)、斉藤幹男 / 札幌(美術作家)、村岡武司 / 函館(ギャラリー村岡) 、木村幹雄 / 函館(ヒュッテ ブーランジェリー) 、曽我 貴彦 / 余市(ドメーヌタカヒコ)
17:30-19:30 / 懇親会
大谷英行 / 黒松内(歌才自然の家レストラン キリカ)シェフのパエリア他 、アンジュの料理&チーズ、ワイン(ドメーヌタカヒコ)

■お申込み・お問合せ:アンジュ・ド・フロマージュ(西村) 080-5583-3041

主催:株式会社アンジュ・ド・フロマージュ
後援:黒松内町

■プロフィール
萬田直紀
○社会福祉法人 『札肢会』理事長。ぴあとぴあ17、障がい者支援施設 あゆ夢、生活介護事業所 愛らんど。
○公益財団法人 『萬田記念財団』理事長。
医学を中心とする研究・教育活動の支援・貢献。芸術分野への支援・貢献および社会福祉への支援を行うことにより、生命の安全を守る医療、社会福祉および情操の涵養を促す芸術の振興・向上を目的とする公益法人。
○札幌交響楽団理事

斉藤幹男
1978年札幌市生まれ。2007年、シュテーデル美術大学(フランクフルト、ドイツ)卒業。マイスター取得。 手描きの絵や写真、CGなど様々な種類のイメージを組み合わせた映像作品を主に制作し、国内外のギャラリーや美術館での展示の他、ライブイベントでの映像上映もさかんに行っている。2016年5月25日~6月23日、札幌市の北海道立近代美術館で開催される「ともにいること ともにあること」展に出品。

村岡武司
1943年音更町生まれ。音更小、音更中、帯広柏葉高、法政大学卒業。1965年より函館市に居住。旧函館郵便局舎再生計画に参加、クラフトショップ「かもめの水兵さん」開設。1985年元町倶楽部活動開始。1990年元町に「ギャラリー村岡」開設。1991年トヨタ財団研究コンクールにて最高賞を受賞し、その助成金で公益信託「函館色彩まちづくり基金」設立。FMいるかの長寿番組「元町倶楽部のじろじろ大学」学長。北海道まちづくり功労者賞受賞。北海道美しい景観のくにづくり審議会委員。

木村幹雄
北海道北斗市出身。1986年に前職である福祉施設を退社。竹村克英さんがオーナーの札幌『ブルクベーカリー』にて1年間製パン技術を学ぶ。1987年9月七飯町に『こなひき小屋』、2005年函館市宝来町に『Pain屋銀座通り』を開業。素材にこだわり、牛乳、チーズ、黒豆、りんごなど、 道南で生産されている地元食材を積極的に使用し、それを全国に発信している。「世界料理学会 in HAKODATE」の実行委員を務めている。

曽我貴彦
1972年長野県生まれ、実家は小布施ワイナリー。大学の微生物研究所の助手を務めた後ココファームを経て独立。2009年余市町に移住。2010年余市町登地区に農園と醸造所をオープン。2haの自家畑(ナナツモリ)ピノ・ノワール種の畑を化学農薬や化学肥料を使わない自然を尊重した栽培方法(ビオロジック)で管理し、畑から醸造まですべて一人で行っている。2014年10月自社農園ピノ・ノワール「ナナツモリ2012」初リリース。

深江園子
北海道札幌生まれ函館育ち。国際基督教大学教養学部語学科卒。子供の頃より料理と料理書に憧れ、(株)柴田書店に入社。子育てを経て北海道でフリーランスの著述業。業界紙からTVまで幅広く活動。生産者・加工者・料理人の現場の声を伝えるほか、食のプロの食勉強会を主宰。近年は地方自治体や農業・教育NPOの食振興事業にも携わる。2015年北海道大学・酪農学園大学・帯広畜産大学三大学院連携コース講師。北海道スローフードフレンズ会員。世界料理学会実行委員。

堺なおこ
札幌テレビ放送(STV)アナウンサーからフリーとなり、現在はコミュニティラジオ三角山放送局番組のDJSTVラジオパーソネリティとしても活躍中。コミュニケーションデザイナー、ビジネスコーチ、フードマイスター、ピンクリボンin SAPPOROの実行委員。

大谷英行
黒松内(歌才自然の家レストラン キリカ)シェフ。1967年瀬棚生まれ、1歳で黒松内町に住む。黒松内中学校、長万部高校卒業。小学生の頃から家庭や学校で自ら作った料理を振る舞う。当時の林野庁共済組合当麻クリーン会館の和食セクションで4年間修業。その後1991年当時23才で歌才自然の家料理人兼管理人でブナの里振興公社に入社。以来24年間、黒松内町の優れた食材で黒松内町に来なければ食べられない料理を提供中。

 

2015年12月14日
から 西村 聖子
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【レポート】食のフォーラム2015

2015年9月12日(土)13時〜19時
コーディネート・文/ 深江園子(オフィスYT)

見えないきっかけが詰まった集い

今年で4回目を迎えたこのフォーラムは、西村聖子さんが食を通じて出会った魅力的なゲストに学び、ふれあう夏の恒例行事です。テーマを定めず自由に語って頂く会ですが、今年の4人のゲストには、ある共通の想いを感じます。それは地域に根付き、自ら豊かさを創り出している点です。
西村さんは始めに黒松内町の皆さんの参加が増えていることに感謝を述べ、続いて「テーマは食に限らず、食を通じた出会いと、そこで生まれる話題を広く取り上げていきたい」と語りました。町内外の人々が年に一度集まり、寛いで語り合うこの会は、まるで大きな食卓のよう。ゲストとのご縁や参加者同士のご縁も、回を追うごとに広がっています。

講演①「暮らす街から」村岡武司さん(函館市・ギャラリー村岡)
◆まちの変遷を見て考える

十勝・音更町で生まれ、進学先の東京からの帰省で函館と出会った村岡さん。高度成長期の函館を訪れた村岡さんは、まちが時流に逆らうかのように歴史を誇り、徹底して残す気迫のようなものを感じました。現在まで函館山の麓の西部地区に住まい、ギャラリーを営んでおられますが、そこから見る函館は、独特の地形と歴史的町並みという顔のほかに、風力、石炭、石油と、エネルギーの変遷と共に塗り替えられてきた日本の縮図という一面も持っていました(そして原子力の時代になった今、函館市は大間原発に反対し裁判を起こしています)。エネルギー資源が変わることで輸送交通手段も変わり、まちの「重心」も移動する。それで言えば、昔の函館港は風力のまち、函館駅は石炭のまち、空港やバイパスのロードサイドは石油のまちというように読み取れます。人口の増減がない時代にもまちは移動し続け、その結果、西部地区の住人は激減した。函館はこうした「変遷の跡」が色濃く残るまちだと、村岡さんは感じています。
ところで、西部地区に残った町並みは、その後どうなったのでしょう。町並み保全や再生のために行動した市民の系譜を、村岡さんは3つに分けて説明してくれました。
《建築物の再生による西部開拓史》
第1次:個性的で小さな建物を再生させた、個人の努力
(相生教会、ペンション古稀庵、旧安田銀行、カリフォルニアベイビーなど)
第2次:30年前〜 比較的大規模な建物が再活用される動き
(旧函館郵便局、金森倉庫、日本郵船倉庫など)
村岡さん自身が携わったのはこの時代です。今でも「のめりこんだ、あの頃は何をしても楽しかった」と言うほど力を注ぎ、鳩が巣食い荒れ果てていた旧函館郵便局を、商業施設として再生利用することに成功しました。電報ひとつで大商いが動く時代にあって、郵便局は情報の中枢。その建物の立派さに、明治時代の函館経済の勢いを感じます。にぎわいの記憶がこもった空間がよみがえると、村岡さんはそこに演奏家や舞踏家を招き入れるなど、様々な仕掛けをしてたくさんのにぎわいを作り出しました。
第3次:10年前〜 再び個人の店が増える動き
(トンボロ、パザールバザール、ムラーノ・デ・アックアなど)
深谷氏が実家を改築して開いた2つ目の店、ラ・コンチャをはじめ、自分の生き方を表現する仕事で、身の丈に合ったやり方で建築を利用する人が増えています。

◆まちづくり 民の系譜

「お上のすることは」と村岡さんがユーモアで表現するのは、函館のまちづくりがいつも官のしくみに牽引されてきたわけではなく、むしろ民の力で自然発生的に歩んできた点です。民の系譜の草分けである「函館の歴史的風土を守る会」(http://www.hakodate-rekifukai.com)ができたきっかけは、一人の女性の新聞への投書でしたし、今も「市民自身が町並みを守る」という活動が続いています。その後村岡さんと仲間たちの「元町倶楽部」の活動「函館の色彩文化を考える会」や、函館・FMいるかで14年間続いた名物ラジオ番組「元町倶楽部のじろじろ大学」が生まれました。その後、まち歩き飲み歩きのアイデアとして全国に広まったバル街やソシエダ(続く深谷氏のお話にて)、他にも函館野外劇の会など、小さな市民活動が「たくさん、それぞれに行われている」と村岡さん。確かにこのほうが、全員をひとつのやり方にまとめるよりも、個人の自由な精神が生きているように思えます。

村岡さんの好奇心と探究心とユーモアがよく表れているのが、「ペンキこすり」の活動です。まるでカラフルな年輪のように見える画像は、サンドペーパーで建物をこすることで、上塗りを繰り返したペンキが層になって表れたもの。函館公会堂の補修時に建造時の色が復元されたのをきっかけに、80棟以上を楽しくこすり続け海外にまで遠征しました。これが建築の色彩変遷についての論文「時層色環」となり、トヨタ財団の研究コンクールでグランプリを受け、その助成金はまちづくりの公益信託になりました。役員も決めず名簿もなく、これだけの波及を起こした元町倶楽部について、「アメーバのような団体」と例えた村岡さん。「何もないときはじっと死んだふりをし、事があればざわざわと集まってきて自ら活動を始めるんです」。個人のゆるやかな集まりが自発的にこれだけの出来事を起こした点に、函館の市民力のようなものを感じます。
函館には、まだまだ取り残された建築があります。けれどなぜかその多くが、外から見えないよう別の壁で覆われている。なんともったいない…。そこには、経済成長期の価値観に乗り遅れたものを隠す心理があったのではないか、村岡さんはそう感じています。

「時代が新しく、大きく、早く、高く…と目指す方向は、もう行き詰まっている。立ち止まって、その価値観を見直してみるのもよいのでは?」(皆さんはいかがでしょうか。)まちに住む人が生き生きと自由で、まちを愛するならば、次の価値観への問いが湧いてくるでしょう。「誇りとするものは何か、何を徹底して残すのか、変えるとすればどうするのか?」

村岡さんが最後に紹介してくれたのは、じろじろ大学の「建学のこころ」。

「美しく変えるエネルギーと、美しいものを変えない精神を 養いましょう」

村岡さんご自身の価値観は、ここにも表れていたようです。//

講演②「料理人への道 そして世界へ」深谷宏治さん(レストラン バスク)

◆ 故郷から「美食世界一のまち」へ

函館の米穀商の家に生まれ、東京へ進学し、その後スペイン・バスク地方で料理修業をした深谷さんは、1981年にレストランを開業。以後、お店の中に収まりきらない様々な活動をしてきました。けれどそれらは、師に学んだひとつの事を実践した結果だったようです。

深谷家のルーツは石川県。祖父は丁稚修業から米穀店を興し、父は会社勤め。そのお父さんは味噌汁を飲まず、ボーナスが出ると家族を連れて中華や洋食、フランス料理を食べに出かけ、お母さんが寝込めば、ご近所のフランス料理店「五島軒」からスープやハヤシライスが届く、そんな家庭でした。幼稚園は五島軒の次男さんと同級で、毎朝店の大きな厨房を通り抜けて迎えに行ったと言います。

1970年には東京理科大理工学部を卒業しましたが、当時はベトナム戦争が終わりかけ、環境問題という言葉が生まれた頃。深谷さんは市民運動に参加し、そしてソニー製ビデオカメラの部品がベトナムで爆弾に転用された事件などを知り、「自然科学だけで、社会科学を学ばずにものを作ってよいのか」と疑問を抱きます。激しい学生運動をやっていた同期達もみな就職したのに、自分は就活をしない。勧められるまま大学の助手をし、本を読みまくっても結論は出ない。どもり癖を揶揄されて奮起し、セールスマンに挑戦したらなぜか売上成績トップになったけれど、それが目的ではないのですぐ辞めた。その後深谷さんは、「食べる事が好きだし、美味しいものを作れば少なくとも戦争にはつながらないし、人を幸せにできるんじゃないか」と思い立ちます。そこで都内のレストランで二年半、働きながらフランス語を学び、念願のヨーロッパへ旅立ちました。

片道切符と観光ビザ、キスリングのザックひとつで横浜を出港し、シベリア鉄道を経てパリに着いたのは10日目。労働ビザがないので、レストランの扉を叩いたが15〜6軒断られ続けます。そこで友人を作るきっかけづくりにヒッチハイクをし、バスク地方の宿屋でフランス語のできる女主人に、小イカの料理が名物だと聞きます。僕の故郷にもイカの内臓を使う料理がある、というと作って欲しいとせがまれ、翌日市場でイカを三ハイ買ってきて、実際に塩辛を作ろうとした。約束を守ったことに感激した女主人が、「うちで働くのも構わないが、スペインで三本の指に入る店へ行きなさい」と保証人になってくれたのです。これが生涯の師、サンセバスチャンの料理人・ルイス・イリサールさんとの縁でした。

◆ 師から受け継ぐ、二つの教え

サンセバスチャンのイリサールさんの店「グルチェ・ベリ」で、多くを学んだ深谷さん。「ルイスの料理は、食材をそのまま厨房に入れるような“本物の料理”だった」と言います。近所の農家が持ってきた袋が動いているので開くと、ウサギや鶏が出てくる。屠るところからやるから、血も内臓も料理に使う。「生き物のエネルギーの上位にいる者が下の者を食べる作業。だから最後の最後まで使い尽くす。そして、料理をゼロから全て作る店でした」。スペインでもそうした仕事は減っており、現地で昔の料理を実演したところ、若手は誰も下ごしらえができなかったと言います。師は当時から、ワイン、酢、チーズ、ハム、アンチョビをつくり、畑をして厨房の堆肥を入れるといった循環も実践していました。1984年に函館で店を持った時以来、深谷さんが日本でつくる人のいなかった生ハムやアンチョビを自家製にし、パンを焼き、野菜をつくるのも、師がお手本なのだとわかります。

もうひとつイリサールさんから学んだこと、それは「料理人は、まちのために何ができるか」という考え方です。昼休みに他店に連れて行かれ、「今日は鯵を勉強するから」と言われる。講師役の料理人が仲間に解説し、どこにどんな鯵がいるか、どんな料理があるか、隠さず教えあう。イリサールさんはこう言いました。「俺たちはバスク人で、マドリッドと対抗している。政治家がやっているのと同じこと(競争)を、料理人は鍋でやるんだ。おいしい料理を出してマドリードの人間を食べに来させる、そのためにバスクの料理レベルを上げなければいけない」。その後、サンセバスチャンではモダンスパニッシュ(料理)に脚光が当たり、人口あたりのミシュランの星が最も多い市になり、お客も料理人も押し寄せる「食の都」になりました。二年半の修業ののち帰国した深谷さんは、毎年バカンスを使ってサンセバスチャンやスペインの他都市に通い続けています。つまり30年間で「今に世界中の人がここに集まるよ」という師の言葉が実現する過程を、目の当たりにしたのです。

◆ 料理人が街のためにできることとは

函館での深谷さんの活動は、次々に形になっていきます。1998年、クラブ・ガストロノミーバリアドス(食に携わる同業異種の勉強会)を始め、2000年に著書「スペイン料理[料理 料理場 料理人]」が完成(村岡さんの発案で出版記念会が開かれたそう)。2004年「スペイン料理フォーラム」の開催は本物のスペイン料理を日本で知らしめるためでしたが、料理記者の岸朝子さんに相談した際に「こういうことは行政か企画会社がやるものよ」と言われたそう。同年、スペインの食習慣に欠かせないバルの文化を知ってもらおうと、25軒の店、450綴りのチケットで第一回「バル街」も行いました(毎年4月と9月で20回を越え、チケットは5000枚が完売)。2009年に始まった「世界料理学会 in HAKODATE」も、「初めは人に笑われた」と深谷さんは言います。しかし現実には2015年春に4回目となり、600人の会場を使うまでになっています。料理学会と同時に、日本初の美食カレンダーの製作も始めました。これは「今ここで、これが食べられる」と、料理と食材をPRするもので、利益は料理学会の資金にもなります。

こうした一見大きな動きも、仲間を誘って実行委員会形式でやればできるはずだ。そして継続性を考えて行政のお金は使わず、資金を回転させながら続けていこう。深谷さんには、そうした確信のようなものがあったようです。食材では昔の米品種「松前」を復活するために種を求め、農家に依頼し、店のパエジャやカルドッソに使っていますが、これは「復活したお米を使うことで、今まで注目されなかった地元の食べ物に目をつける人が現れるから」と言います。また、村岡さんの話に出てきた、壁で覆い隠された歴史的建造物のひとつ、旧・松橋商店を、理解ある友人が買い取って修復し、その維持のために仲間を募って男性会員のみの美食倶楽部を作っています。これはゆくゆく、港の目の前というロケーションと、蔵造りの特徴を生かしてマイクロワイナリーに使う人が現れるまでの、リレーの仕組みなのだそう。

こうした数々のアイデアがなぜ実現できるのでしょうか。深谷さんの真の意図は、料理の力で生まれ育った街を心地よく、楽しくすること。それは、料理人の役目とその果たし方を示してくれた師・イリサールさんに約束した、「ちゃんとしたレストラン」の、ひとつのありかたなのかもしれません。//

 

第二部 パネルディスカッション

パネリスト:新川幸夫さん、村岡武司さん、深谷宏治さん、曽我貴彦さん

コーディネート:深江園子

パネルディスカッションのテーマは「食から町づくりへ」。

講演者のお二人に、新たにお二人を加えたパネルのテーマは、暮らすまちを心地よく、楽しく、豊かにする秘訣。食や環境といった切り口は、そこへ至る手段なのではないか。そんな気づきを4人のパネリストにぶつけてみました。

新川幸夫さんは、2007年から続くボランティア活動団体「黒松内ブナ林再生プロジェクト」の会長です。ご子息が同町へ赴任したのを縁に移り住み、趣味の登山などを通じて黒松内町が最北自生地と言われるブナ林の存在を知り、保存再生活動を始めました。町内外の協力と環境CRSなどのスポンサーも得て、ブナの森の素晴らしさを理解していくにつれ、その価値を生かす方法として、フットパスの整備にも取り組んでいます。その手法は、山や環境に負荷を与えない方法を探る調査に基づいています。

曽我貴彦さんは小布施ワイナリーの次男に生まれ、山梨県のココファームで農場長を務め、奥さんとともに北海道へ移住。2009年に余市町登(のぼり)地区で小規模の醸造所を備えた2ヘクタールのブドウ農園を開きました。地元栽培家の原料で醸造したワインが、日本ワインの中でもひときわ人気を博したヴィニュロンです。2014年には自社農園のピノ・ノワール種100%の「ナナツモリ 2012」を初リリース。栽培法は無化学肥料、無農薬で、畑から醸造まですべて一人で行っています。

 Q1. みなさんが行動を起こしたきっかけは、どんなことだったのでしょう?

(コメント敬称略)

新川:同じ後志管内の小樽出身で高校教員として地方赴任が多く、山歩き、海遊びなどで各地の自然に親しんだ。場所が変わっても、自分の住むまちが良くなってほしいという思いがある。何か役に立てることはないかと考えた結果、黒松内町ではぶな林の再生に取り組んできた。

村岡:実は函館に親しみを持ったのは、親類がいて帰省の折にこづかいを貰えたことがきっかけ(笑)。実際に暮らすようになり、歴史的建造物に出会い、旧函館郵便局の再生活用を、と行動しはじめたとき、函館の知人たちに全力で止められた。地元の人もその価値に気づいていない、と知ったことが逆に動機になった。

深谷:東京やバスクで暮らすことで、生まれ育った町を外から見て、改めて素敵だなあと感じたのがきっかけ。小説の舞台として数多くの作品に登場する函館には誇りを持っていた。料理で言えば、東京の飲食店で食事をすると、函館で当たり前だったものが東京では知られていないのに驚いた。それほど外食の層の厚い豊かなまちだったのだと気付いた。料理をつくる環境としては恵まれていたと思う。師匠は日本には現地と同じようなスペイン料理店がない、それをつくれと言った。そこで、自分の故郷でレストランを開いた。

曽我:余市町に魅力を感じて移住した。その決め手は、北海道の冷涼な気候と、そして果樹栽培の歴史があること。自分のめざす栽培に適した環境(夏は十分暑くなり、冬は雪の中で樹が越冬できる)と、ベテラン果樹農家さんや同世代の仲間である栽培家の人たちの存在が大きかった。また、余市の果樹栽培がもつ景観などの価値に気付かれていない気がした。

Q2. 実際の行動を振り返って、最初に起きた(または起こした)変化は?

新川:振り返ってみると、人と出会ったことが大きい。ブナ林センターのスタッフ、役場の担当者とのふれあいが、ボランティア活動を立ち上げる後押しになった。ボランティアでは必ずしも多くの人が行動できるわけではないが、ブナ林の価値を、例えばツーリズムなど他の角度からも発信したい。

村岡:活動の孵化装置のようになったのは、シャノアールという店の大きな丸テーブル席だった。そこに集まる常連客が語り合ううちに、共通の思い、自分たちの時代について思いが深まった。古い建物や水運に使われた掘割など、今使われていないから価値がない、壊そうという物差しに異を唱えてきたが、当時は連戦連敗だったと思っている。しかしその円卓から、歴史的な環境の中で自分たちの人生を表現しよう、という個人が幾人も現れたように思う。

深谷:たぶん、旧市街地区から、人が減ることへの歯止めにはなっているかもしれない。人の流れ、まちの重心移動が、少しだけ変わってきたように感じる。街並みという視点で見て、ここで誰か何かやらないかなあ、と思う場所に、お店ができたりといったことだ。ヨーロッパでは小さなまちのデザインが、中心にギュッと集約されている。日本のまちは外へ外へと広がって薄くなってしまうので、もっとみんな集まって暮らさないかなあと願っている。バル街ではまちに人が集まる。住む人は増えてはいいかもしれないが、ただ、観光客はくる、それは間違いない。

曽我:田舎ゆえの良い点がある。自分もそうだったが、父親世代との葛藤、世代交代がこれから、という過渡期の時代にある。一方で、息子世代は他府県よりも外を見る機会が少ないように感じた。そこで、若いブドウ農家のグループをつくって語り合い、よいワインを飲む勉強会を始めた。また、自分たちが出荷したブドウでつくるワインを、産地にお客様を迎え入れて飲んでもらうことも始めた。こうしたことをお祭りとして、仲間と一緒にやることにした。それが毎年7月、300人規模の催しになっている。町主導ではなく、個人の集合体が自由に行動するのがいい気がする。ワイン特区でもあり、農家さんが蔵を小さく改装してワインが作れる地域になっている。

Q3.長年のうちにまちを少しずつ変えていく、そんな皆さんの「続ける原動力」は?

新川:一町民のボランティアなので、楽しいということが一番の原動力。自分のやりがい、楽しみが長続きの理由。また、視野を広くもつことも大切。フットパスの活動では交流人口の増加がひとつの効果で、つまり町内外の人のつながりが増え、自分の人生も豊かになったと感じている。

村岡:人の手触り感、生活の息吹のようなものが残っているまちに惹かれたが、孫をもつ年代になって、いま残すべき環境は何かを考えさせられるようになった。まちの持続可能性という面で、函館のまちが古いものを残すことも含め、いま自分たちが生きている環境の中で、自然や郊外と都市の関係も含めて興味がある。

深谷:僕自身が楽しいし面白い、これに尽きる。例えば、3.11震災の年、一度だけバル街開催を中止したことがある。印刷物が刷り上がった直後の寄り合いが震災の一週間ほど後だった。その時は、こういう時だからやるべきだという意見、静かに控えるべきだという意見、両方があったが、ある仲間が「友人が行方不明。いま楽しく参加はできない」と言った。それを聞いて、皆「楽しめないのなら、やめよう」と一致した。心から楽しめる状況をつくることが、継続することなのかもしれない。もうひとつ、官のお金を頂かないで継続することも、自由に楽しもうという気風につながっているかもしれない。料理学会も、自分たちの本当に楽しめることで、お金を回していければ、それがいいと思う。

曽我:都市と違って過疎化しつつある農村ならではの危機感がある。自分たち世代には人が都市に集中してしまうのを食い止める役目がある。果樹は一度植えたら100年もつものだが、その時は自分の孫が管理しているはず。息子に引き継ぐ時にいい状況で手渡したい、そのために良いものをつくり、お客さんが訪れるようになり、地域を活性化することを考えていこうと思う。

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「やりたいこと」が「義務感」に変わってしまいがちな毎日の中で、小さく行動を起こすこと。今回のパネリストの皆さんは、誰よりも「自ら楽しむこと」を見失わず、それを力にして、たゆまずしなやかに活動しています。それが周りの人にも広がり、暮らしを少しずつ変えていく。聞く側の私たちも、身近な行動を小さく変えていきたくなる、示唆に富んだお話でした。//